小説 老婆 3

 物思いに沈みながら、ネフスキー通り沿いを歩いた。今度こそ管理人のところへ行って、すべてを話さなければならない。老婆のかたをつけてしまったら、あの可愛いご婦人に会えるまで、一日中でも菓子パン屋の前に立ち続けよう。なにしろパン代の48カペイカも返していないままだ。ぼくには彼女を探す、格好の言い訳があるのだ。飲んだウォッカがまだ効いていて、すべてがとてもうまく、簡単にいくように思える。
 フォンタンカで屋台に立ち寄り、残った小銭で、大きなジョッキの穀クワスを飲んだ。クワスはまずくて酸っぱくて、口の中にひどい後味を感じながら先に進むことになった。
 リテイヌイ通りの角でどこかの酔っ払いが、フラフラしながらぶつかってきた。リボルバーを持っていなくてよかった。あやうくその場で撃ち殺してしまうところだった。
 家に着くまで、ぼくは、憤激で歪んだ顔をしていたに違いない。いずれにせよ、行き会う人のほとんど全員が、ぼくのほうを振り返った。
 ぼくは住宅の管理事務所に入っていった。背の低い、薄汚い、しし鼻の、片目の、白っちゃけた髪のギャルが机に座って、手鏡をみながら、口紅を塗っていた。人はどこかな?」ぼくは尋ねた。
 ギャルは黙って、口紅を塗り続けた。
「管理人はどこだよ?」きつい声でぼくは繰り返した。
「明日くるよ、今日じゃなくて」小汚い、しし鼻の、片目で白っちゃけた髪のギャルは答えた。 
 ぼくはおもてへ出た。道の反対側を、機械仕掛けの義足をつけた障害者が歩いており、自分の足と杖とで、カツンカツン大きな音をたてていた。少年が六人、障害者の後ろで、彼の歩き方を真似しながら走っていた。

ぼくは自分の家の正面口に引き返し、階段をあがりはじめた。二階でぼくは立ち止まった。老婆は腐りはじめているに違いないという、嫌な考えが頭に浮かんだのだ。ぼくは窓を閉めておかなかった。窓が開いていると、死人の腐敗が早く進むという話がある。なんとまた愚かな真似をしたもんだ!あのクソ管理人は明日にならないと来ないのに!優柔不断に数分間立ち尽くし、また階段をあがりはじめる。

 自分の部屋のドアの近くで、ぼくはまた立ち止まった。もしかして、パン屋に行って、あそこで可愛いご婦人を待とうかな?二晩か三晩、彼女のところへ泊めてくれと懇願するのだ。けれど、今日彼女はパンを買ってしまったから、つまり、パン屋にはもう来ないだろうという事を、そこで思い出した。そうだ、そんなことからは何ひとつ解決しやしない。
 ドアを開けて、廊下に入った。廊下の果てに明かりがついており、手に雑巾か何かを持たマリヤ・ワシリエヴナが、別の雑巾で床を磨いていた。ぼくを見て、マリヤ・ワシリエヴナは叫んだ。
「どこかのおじいしゃんが、ああたのことを聞いてまひたよ!」
「どんなおじいさん?」ぼくは言った。
「知ぃましぇん」とマリヤ・ワシリエヴナは答えた。
「それはいつのこと?」ぼくは尋ねる。
「そえも知やない」マリヤ・ワシリエヴナは言った。
あなたがおじいさんと話したんですか?」ぼくはマリヤ・ワシリエヴナに聞いた。
「あたしでしゅよ」とマリヤ・ワシリエヴナ。
「じゃあ知らないことはないでしょう、それはいつのことです?」ぼくは言った。
「二時間くやい前」とマリヤ・ワシリエヴナは言った。
「それで、そのおじいさんはどんな背格好でした?」
「そえも知ぃましぇん」マリヤ・ワシリエヴナはそう言って、台所へ行ってしまった。
 ぼくは自分の部屋に近づいた。
 ぼくは思った。(突然、老婆は消えた。部屋に入ったら、老婆はいないんだ。神さま!奇跡というのは、まさか起こらないのだろうか?)
 錠をはずし、ゆっくりとドアを開け始める。もしかしたら、これはたんにそう感じただけかもしれないが、腐敗の初期の甘ったるい匂いが、ぼくの顔に向けて漂ってきたような気がした。開きかけのドアを覗き込んで、ぼくはその瞬間、その場で凍りついた。老婆は四つんばいで、ゆっくりとぼくの方に向かって這ってくるところだった。
 ぼくは悲鳴をあげてドアを叩きつけ、鍵を回して、反対側の壁に飛びすさった。
 廊下にマリヤ・ワシリエヴナが現れた。
「呼びまひた?」彼女は聞いた。
 何も答えることができないほど慄いていたので、ぼくはただ頭を横に振った。マリヤ・ワシリエヴナは近くに寄ってきた。
「だえかと話していましゅたね」彼女は言った。
 ぼくはまた頭を横に振った。
「キティガイ」とマリヤ・ワシリエヴナは言って、また台所に去っていったが、途中で幾度かぼくの方を振り返った。
(こんな風に立ってちゃいけない。こんな風に立ってちゃいけない)、とぼくは心の中で繰り返した。このフレーズはぼくのどこか内側で、ひとりでに出来上がったものだ。意識にあがってくる前に、ひたすら繰り返していた。
「そう、こんな風に立ってちゃいけない」とぼくは自分に言ったが、それでも麻痺したように立ち続けた。何か恐ろしいことが起こったのだが、過ぎたことよりも、もしかしたら、もっとずっと恐ろしい何かが控えているのだ。思考はぐるぐると廻り、ぼくに見えているものはただ、四つんばいでゆっくりとぼくの方に這ってくる、死んだ老婆の邪悪な眼だけだった。
 部屋の中に突入し、この老婆の頭蓋骨を粉砕してやること。そう、それだ、やらねばならぬことは!ぼくは目で探し回り、廊下の隅に、もう何年も何のためのとも知れず置いてある、クロケット用のハンマーを見つけて、満足した。ハンマーをつかむ、部屋に突入する、そしてバシーン!・・・
 悪寒はまだ去らない。内側から湧き上がってくる寒さに肩をいからせ、ぼくは立っていた。思考はめまぐるしく飛び回り、混乱して、最初の地点に戻ったかと思えば、あたらしいイメージを受けてまた飛び回る。ぼくは、自分の思考に耳を傾けつつも、まるでそれらから孤立しているようで、あたかも思考の指揮官はぼくではないようだった。
「死人というのは」とぼく自身の思考がぼくにむかって説明した。「つまらない人たちのことなんだよ。彼らを安息者と呼ぶなんてバカな話だよ、やつら実際は不安息者じゃないか。やつらのことは、監視に監視を重ねていかなきゃいけない。どんな霊安室の番人にでも聞いてみなよ。彼らは何のためにあそこにいると思う?目的はひとつだけ、死人が霊安室から這いだしてこないように、監視しているのさ。そういう意味では、おかしな事件も多々あるからね。番人が上の命令で風呂に入っているうちに、一人の死人が霊安室から這い出して、殺菌消毒室に這いよるや、そこでシーツを山ほど食ってしまった。消毒係たちはこの死人を完膚なきまでに叩きのめしてやったが、だめになったシーツは自分たちの財布から弁償しなければならなかった。また別の死人は、妊婦の病室に這いこんで彼女らを仰天させたので、一人の産婦などはその場で早々に流産してしまったほどだったよ。一方死人は投げ出された胎児に飛びつき、クチャクチャ音を立てながら、それを食らった。一人の勇敢な付き添い看護婦が、死人の背中をイスでどやしつけたが、死人がその付き添いさんの脚に噛みついたので、彼女は死体の毒に感染してすぐに死んでしまった。そう、死人というのは、つまらない奴らだけど、やつらには要注意なのさ。」
「ストップ!」ぼくは自分自身の思考に言った。「バカな事を言うもんじゃない。死人は動かないだろ。」
「いいぜ」ぼく自身の思考がぼくに言った。「なら、自分の部屋に入っていけよ。あそこにいるのは、お前いわく、動かない死人なんだろ」
 意外な強情がぼくの中で口を利きはじめた。
「入るさ!」ぼくは自分自身の思考に、断固として言った。
「やってみろよ!」ぼく自身の思考はあざ笑うようにぼくに言った。
 この嘲笑的態度が、最終的にぼくをかっとさせた。ぼくはクロケットハンマーをつかみ、ドアの方へ突っ込んでいった。
「ちょっと待て!」ぼく自身の思考が叫びだした。しかしぼくはもう鍵を回し、ドアを開けてしまっていた。
 老婆は床に顔を伏せ、敷居のところに横たわっていた。
 クロケットハンマーを構え、ぼくは隙を殺して立った。老婆はピクリともしない。
 悪寒が去り、思考ははっきりと、綿密に流れだす。ぼくは自分の思考の指揮官となった。
「何より先に、ドアを閉めるんだ!」ぼくは自分自身に指令を発した。
 ドアの外側から鍵を抜き、内側に差し込む。ぼくはこれを左手で行い、右手ではクロケットハンマーを持ったまま、一瞬たりとも老婆から目を離さなかった。ドアに鍵をかけ、用心深く老婆をまたぎ、部屋の中央に抜ける。
「さて俺とお前で片をつけちまおうぜ」とぼくは言った。警察小説や新聞の事件の中で、普通殺人者がとびつくような計画を思いついていた。ぼくは、ただ、老婆をトランクに詰め込んで、町外れに運んでゆき、沼の中に沈めてしまいたかったのだ。そんな場所をひとつ知っていた。
 トランクはベッドの下にあった。ぼくはそれを引きずり出して、開けてみた。本が何冊か、古いフェルトの帽子、破れたシーツ。そんなものが中に入っていた。全部取り出して、ベッドの上に置いた。その時、外側のドアが大きな音をたてて叩かれ、ぼくには老婆がびくりと動いたような気がした。
 ぼくは瞬間的に飛び退さると、クロケットハンマーをつかんだ。
 老婆は静かに横たわっている。ぼくは立って、耳をすませる。これは機関士が戻ってきたのだ、彼が自分の部屋を歩く物音が聞こえる。彼は廊下を通って台所へ行った。もしマリア・ワシリエヴナがぼくの乱心について話したとしたら、これは良くないぞ。鬼ババア!台所へ出て行き、大丈夫なところを見せて、彼らを安心させなければならない。
 ぼくは再び老婆をまたいで、帰ってきたときに、部屋に入りこまなくてもすぐにハンマーを手に取れるように、ドアのすぐ近くに立てかけ、廊下に出て行った。台所から声が聞こえたが、言葉は聞き取れなかった。自分の後ろで部屋のドアを軽く閉め、用心しながら、台所へ向かった。マリヤ・ワシリエヴナが機関士と何を話しているのか知りたいものだ。廊下をサッと通り抜け、台所の近くで歩を緩めた。機関士がしゃべっていたが、どうやら、職場で起こったことを何か話しているようだった。
 ぼくは入っていった。機関士がタオルを手に立ちながらしゃべっていて、マリヤ・ワシリエブナはイスに座って聞いていた。こっちを見て、機関士はぼくに手を振った。
「どうも、どうも、マトヴェイ・フィリッポヴィチ」そう彼に言って、ぼくは風呂場のほうへ抜けた。まったく平和なものだった。マリヤ・ワシリエヴナはぼくの奇妙さには慣れっこになっているから、この最後の出来事も、もう忘れることができたのだろう。
 突然、ドアに鍵をかけなかったことを思い出した。もし老婆が部屋から這い出してきたら?
 ぼくは駆け戻りかけたが、同時にはっと気がついて、住人たちを驚かせないように、穏やかな足取りで台所を通り過ぎた。
 マリヤ・ワシリエヴナは台所テーブルを指でコツコツ叩きながら、機関士に言っていた。
「しょうでしゅよ!しょれはしょうでしゅよ!あたしでも笛ふいたでしょうよ!」

 凍てついた心臓で廊下に出て、そこからはもう殆ど駆け出さんばかりになって自分の部屋にたどり着いた。
 見た感じ、平穏そのものだった。ぼくはドアの方へ近づいて、少しだけ開くと、部屋のなかを覗いてみた。老婆は以前と同じく、顔を床に伏せたまま、静かに横たわっている。クロケット用のハンマーも、ドアのところの同じ場所に立てかけてあった。ぼくはハンマーを手に取り、部屋の中に入って、後ろでドアに鍵をかけた。ああ、部屋のなかははっきりと死体の臭いがしていた。ぼくは老婆をまたいで、窓のほうへ歩み寄り、ベンチに座った。まだまだ弱いとはいえ、もうすでに耐えがたいこの臭気で、気分が悪くならなければいいが。ぼくはパイプをふかした。吐き気がして、すこし腹が痛んだ。
 おい、何をこんな風に座っているんだ?この老婆が腐りきってしまう前に、早く行動に移さなければ。しかし、万が一のために、トランクに彼女を入れるときは慎重にやらねばならない。彼女がぼくの指に噛みつくとしたら、それはきっとこの時なのだから。そうなれば死体に伝染して死ぬのだ・・・謹んでお礼申し上げよう!
「えへ!」そこでぼくは頓狂な声を上げた。「そういえば、どういうものであんたはぼくを噛むおつもりですか?あんたの歯は、おや、どこですかねえ!」 
 ベンチの上から身をかがめて、窓側の片隅を見た。僕の計算では、そこに入れ歯があるはずだった。しかし入れ歯はそこにはなかった。
 ぼくは考え込んだ。もしかして死んだ老婆は、歯を捜して、部屋じゅうを這いずり回ったのか?もしかしたら、入れ歯を見つけて、さらにそれを自分の口に嵌めなおしたのか?
 クロケットのハンマーを手にとって、それで隅っこを探ってみる。ない、入れ歯は消えた。そこでぼくはたんすから厚い毛織の敷布をひっぱり出し、老婆のほうへ近づいた。クロケットのハンマーを右手で持って構えつつ、左手で毛織の敷布を持ったのである。
 この老婆は、嫌悪に満ちた恐怖をかきたてる。ハンマーで彼女の頭を持ち上げてみた。口は開かれ、眼は上に向かって白目を剥き、ぼくが長靴で蹴ったあご全体に、大きな黒いあざが拡がっていた。老婆の口を覗き込む。いや、彼女は入れ歯を見つけていない。ぼくは頭を離した。頭は落ちて、床にあたった。
 それでぼくは床に毛織の敷布を広げ、老婆のすぐ隣へひきずってきた。それから足とクロケットのハンマーで、左脇から、老婆を仰向けに転がした。これで、彼女は敷布の上に横たわっている。老婆の足は膝のところで折れ曲がり、こぶしは肩のほうに押しつけられていた。仰向けに寝た老婆は猫みたいで、襲ってくる鷲から身を守ろうとしているような感じだった。はやくこの死骸を片づけちまえ! 
 老婆を厚い敷布でくるんで、両手で持ち上げる。老婆は思ったよりも軽いような気がした。ぼくは彼女をトランクに下ろして、ふたを閉めようと試みた。あらゆる困難をここでは覚悟していたのに、ふたは比較的、軽々と閉まった。トランクの錠をカチャリと鳴らし、ぼくは背筋を伸ばした。
 あた・かもシーツと本が中に入っているような、まことに品行方正ないでたちで、トランクはぼくの前に立っていた。取っ手を持って、持ち上げようと試みる。そう、もちろん、重いことは重いが、重すぎることはなく、これなら充分市電まで運んでゆけそうだ。
 ぼくは時計を見た。五時二十分。これはいい。すこし息をついてパイプを吸おうと、ベンチに腰掛けた。
 今日ぼくが食ったソーセージは、あまり良くないものだったようだ。腹が刻一刻と痛みを増している。もしかしたら、生で食べたせいではなかろうか?それとも、腹痛は純粋に神経性かもしれない。
 ぼくは座って、パイプをふかす。刻々と時間が過ぎてゆく。
 春の陽が窓を照らし、ぼくはその光の流れに目を細める。太陽が向かいの家の煙突の陰に隠れたら、煙突の影は屋根を走って、通りを飛び越え、僕の顔のうえへ寝そべった。昨日のこの時間には、座って小説を書いていたことを思い出す。ほらこれだ。格子つきの紙に細かい筆跡で書かれた、『奇跡の人は背が高かった』という一節。
 ぼくは窓を見た。通りを機械仕掛けの義足をつけた障害者が歩いてゆき、自分の足と杖とでカツンカツンと大きな音をたてている。二人の労働者と、一緒にいる老婆が、障害者の滑稽な歩き方をみて、横腹を押さえて笑っている。
 ぼくは立った。時間だ!行く時間だ!老婆を沼に運び出す時間だ!また、機関士のところで金も借りなければならない。
 廊下に出て、機関士のドアに近づいた。
「マトヴェイ・フィリッポヴィッチ、ご在宅ですか?」ぼくは尋ねる。
「在宅だよ」と機関士は答えた。
「それじゃあ、すみませんけど、マトヴェイ・フィリッポヴィッチ、お金が余ってはいませんか?ぼくは明後日受け取るんです。30ルーブリほど貸して頂く訳にいきませんかね?」
「いきますよ」と機関士は答えた。彼が鍵をジャラジャラいわせながら、何かの箱を開けているのが聞こえた。それから彼はドアを開けて、新札の赤い30ルーブリ札をぼくに差し出した。
「どうもありがとうございます、マトヴェイ・フィリッポヴィッチ。」とぼくは言った。
「いいよ、いいよ」と機関士は言った。
 金をポケットに突っ込んで、ぼくは自分の部屋に戻った。トランクはもとの場所に静かに立っていた。
「さあ、今度こそ行くぞ、予断はぬきだ」とぼくは自分自身に言った。
 トランクを持って、ぼくは部屋から出た。
 マリヤ・ワシリエブナがぼくとトランクを見て、叫び声を上げた。
「どこへ行くんでしゅ?」
「おばさんのとこへ」とぼくは言った。
「しゅぐに戻ぃましゅか?」マリヤ・ワシリエブナがたずねる。
「はい。」ぼくは言った。「おばさんのところへ、シーツだの何だのを持っていかなきゃならないだけなんです。多分、今日じゅうに戻ります。」


(続く)







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